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2008年 11月 30日 ( 1 )

rainin', cold'n' pain

Talkin' to Myself

はじめに

今日は、私の中学生時代について書いてみようと思います。私の中学生時代は、ちょうど1960年代におさまるのです。あまり音楽に触れず、かつ、個人が特定されないようにプライバシーに触れず、書けたらお慰みということですね。

1.学校

 私の通っていた中学校は、それまで通っていた小学校と軽自動車が通れるほどの細い道を隔てた南側に校舎が建っていました。どちらも、どちらの学校の校舎も今は取り壊されて新しい校舎になっています。間の、細い道は、二車線に街路樹と歩道がついた道に拡張されています。
 私の家から中学校までは直線距離で1キロらいだったと思います。
 この細い道のところに自転車置き場の入り口がありました。記憶では、通学距離が2キロ以上の生徒が自転車通学を認められていたと記憶しています。

 当時、私の住む町には中学校は2つでした。今は、5校になっています。文部省の方針が変わったせいです。私が通っていた当時は、5校の小学校の生徒が集められた小学校でした
 校舎は、終戦直後の6-3-3 制に学制改革が行われた直後、物資不足の時代に建てられた校舎で安普請、隙間風が吹き込み、石炭ストーブが冬に教室内に入れられても少しも暖かくならないという校舎でした。ストーブの前の席は熱くてたまらず、残りのみんなは寒いというわけです。

 昔は、今とは違い、冬は積雪があり、学校の玄関前の広場や小学校との間の道の除雪をしたものです。授業を短縮して除雪することもありましたし、体育の授業が除雪の時間になることもありました。
 道が全て今のように舗装されているわけではありませんでしたが、舗装された道路で車が通るような所はすぐにアイス・バーンになったものです。そこで、学校帰りに、かばんを滑らして遊んでいたのだからのどかなものです。バスやダンプが通る道なのにそんな子ことをしていたわけですから。

2.授業

 クラスは45人前後、学年9クラスで三学年ですから、1,200人前後の生徒がいたわけです。小学校のときも1,200-1,300 人ほどでしたからそれが普通だと思っていました。小学校のときは、学年4ないし5クラス、6学年だったのです。
 当時、私の通っていた学校では誰の主導提唱によるものかは知りませんが、グループ学習形式による主体的学習が行われていました。具体的には、クラスを6人程度からなる班に分けます。8つ前後の班においては、班長を決め班ごとに掃除当番をする、などというのは当たり前ですね。

 国語、英語、数学、理科、社会といった科目の勉強も班ごとに予習し授業中には、互いに教えあうというのが基本でした。科目担当の先生は何をするかというと、基本的な勉強の進度のスケジュールを立て、理解の難しい所を教えるというスタイルだったと思います。
 個々の先生によってこのグループ学習というか集団学習スタイルの理解の仕方、得手不得手、それより、好き嫌いがあったのでしょう、班ごとに分かれているものの、普通の授業のように自分が中心となって教える人が過半ではありました。質問等を発する場合にグループを単位にするというくらいが普通だったように思います。ただ、グループ単位の主体的学習方針に忠実な人もいたのは事実です。

 今考えてみると、自分で学習でき、お互いに教えあい、それでもわからないところは教師に聞くというのはある種の理想刑かもしれませんが、それで、数学や英語のような生徒には未知の部分が本質である教科の教育を行おうというのは無謀だったと思います。
 私のような他人に強制されるのが嫌いなタイプには向いていた気がしますが、英語の授業をほとんどこれで押し通した先生もいました。

3.先生

 昔は、手を上げて殴る先生というのは少なからずいたものです。それはそういうものだと生徒も親も受け入れていました。暴力を授業中に振るうというと大げさですが、しかるときにぶん殴る、といっても、大概平手でしたからたいしたことではないのですが、それはそれで理由があるときに限られていたように記憶しています。

 ただ、いつの時代にもいろんな人がいて、なぜそこで、拳骨を振るうのかが判らない先生もいました。この手の人は、全校から恐れられていました。それはそうです、いつ何時どんな理由で殴られるのか予想がつかないのですから、遠くに姿を見かけたら近づかないようにするしかありません。

 思い出に残る先生の内の一人は、このような先生です。この先生は、体育教師だったのですが中学校一年生のとき、私をプールの足が底に届かない場所まで引っ張っていき置き去りにしました。泳げなかった私は、クラス全員の見ている前で、もがき、沈み、飛び上がって息をし、一緒に水を飲み、要するに溺れました。自力で何とかプールから這い上がりましたが、プール・サイドで吐いてしまいました。そのまま、医務室に直行し、午前中は、医務室で寝ていました。土曜だったのでお昼に帰宅しました。
 後にも先にも医務室で寝たのはそのときだけです。おかげさまで、それ以来、水が怖くて泳げません。いわゆる海軍式の鍛錬法ですね。親父は、不良上がりで海軍にとられましたが、戦後、水泳で国体に出たこともあるのですけれど。
 若いときに、水難の相があるといわれたのだそうで、一度も私に水泳を教えてくれませんでした。親父のことは私の本質につながる話なのでこれだけにしておきます。

 中学二年のときの担任の先生のことを書きます。この先生をなぜ覚えているかという、共働きだった私の母親を私の素行不良のせいで学校へ呼びつけたからです。それだけではなく、夜、自宅の近所にあったその先生の自宅に呼ばれて説教されました。何を説教されたかはよく覚えていません。勉強しているだけでよいというものではなく、ちゃんとルールを守らないとろくな人間になれないぞとかいわれたのだと思います。
 なぜ、このようなことになったかということです。冬でストーブが教室にあるときでした。図工の時間でエッチングをしていました。それで、各自、家から千枚通しのような先のとがったものを持ってきていたのです。当たり前のことですが、危ないものだから授業中以外はしまっておくように注意されていました。
 まあ、そこは悪童ぞろいですから、千枚通しや釘で遊びます。具体的には石炭置き場が人気が少なかったので、掃除の時間にあつまり、そこでダーツのように千枚通しを投げて遊んでいたわけです。だんだん距離も長くなり、変な自信をみんながつけだしたというわけです。みんなではなく、私がというべきでしょう。
 この後は予想がつくとおり、教室で同じことをするにいたるのは当然です。教室の後ろの掲示板くらいを的にしている分には問題なかったのですが、馬鹿だったんですね、教室で振り返ってみると黒板があったわけです。次の的は、黒板という次第。これも特に問題はなく、詰まらんなと。ここからが本当に大馬鹿者だと思うのですが、教室のストーブの煙突、当然、鉄製ですが、これを的にしてみたわけです。穴が開いていたら大変なことになったと思うのですが、幸か不幸か見事に煙突に跳ね返され、千枚通しは、下に落ち、ストーブの上においてあったブリキの洗面器を直撃しました。千枚通しはブリキには勝ったようで、洗面器には穴が開き、そこからお湯が全部漏れてしまいました。つまらんというのが私の感想でありました。ここで、終礼のベルが鳴り担任だったかの教師がやってきました。
 この日の当番は、なぜか私で、私が起立、礼と号令をかけ終礼の進行をするために先生の横に立っていました。私の後ろにはストーブがありました。型どおりに終礼が進む中で、その先生が洗面器を見ると水が無く、危ない、ちゃんと規則を守れといって洗面器を手に取りました。そして洗面器の穴を発見したというわけです。やったのは誰かとクラスに問いかけ誰も手を上げないので、そりゃそうです、やってないのに手を上げる馬鹿はいませんが、横で私が手を上げました。こう書くと、みなの様子を見て私が手を上げたようですが、先生の問いと同時に手を上げていたのですが横にいたので気づくのが遅れたという話です。
 なぜ、こうなったといわれたのでありのままを話しましたが、そりゃ、怒られて当然です。ひとしきりクラス全員の前で私に説教した後、先生が足元を見ました。教師の板の床の私の足元に数個の穴が焼け焦げた痕を残して開いていました。これは、なんだ、誰か説明しろということになりました。
 私が手を上げ、ストーブ用の火かき棒をストーブに突っ込み、半分くらい真っ赤になったやつを床に押し当て穴を開けたのだと説明しました。連発だったので、怒り心頭だったのでしょう、母親が呼ばれたという次第です。全て私が悪いのですが、母は今でもこのときのことを覚えていて私に釘を刺します。
 先生の家へ行ったなどというのは後にも先にもこのとき限りの経験です。覚えているのは、洋酒といってもダルマ(サントリー・オールド)とグラスを飾った棚があったことと本棚に並んだ本でしょうか。私の家には洋酒を飲む人間がいなかったので珍しかったのです。本棚には、中央公論社から出ていた、世界の歴史シリーズ9冊の緑の背表紙が並んでいました。このシリーズは、母に買ってもらっていたので、全部読んだって言ったのを覚えています。今、考えると、対して給料も高くなくて共稼ぎ、父親は飲んだくれの生活の中で母は、高価な投資をしたものだと思います。その先生は、おそらく全巻読んではいなかったのかもしれませんが、さすがに驚いていました。
 私は読書好きだったことには間違いありません。

 3人目の先生は、中学3年生のときの担任の先生です。おそらく、先生本人が意識している以上に私の人格形成に影響を与えた人だった思います。当時、若くてやる気に満ちた生徒の生活に飛び込んでくるような先生でした。先にも書きましたが、班ごとに、グループ日誌というのをつくり、各班で毎日、一人が何か書いて、朝礼で先生に渡します。終礼までに先生がコメントをつけ各班の次の生徒に渡すということを一年間繰り返しました。

 班単位の交換日記ですね。他の生徒の書いたこと、それに対する先生の赤インクで書き込まれたコメントをみなが見るわけでブログのようなものでしょうか。何かを必ず書くことを要求されましたが、何をどれだけ書けというような指導は一切ありませんでした。ですから、ノートに4行くらいしか書かない生徒、書いてない日もあるわけですが、その先生はかならず、そのページが埋まるだけのコメントを書いてくれていました。生徒の方が、2頁も3頁も書くこともありました。短く端的なコメントのときもありましたが、生徒が2頁書いたら3頁コメントをつけるという先生でした。

 このように長い文章を生徒の誰かが書き始め、先生がそれにコメントをつけるということが始まると、その班の日誌において、その話題について議論が始まることになります。8つあまりの班を相手に、このようなことを続けることができたのはその先生も若く、私のようなひねくれ者以外は、みな真面目だったのですね。
 だって、なぜ、今、私たちは勉強しなければならないのか、受験というのは何のためなのかなどということが話題になるわけですから。

 このあたりで今日は、息切れですね。John Einarson with Chris Hillman の Hot Burritos - The True Story Of The Flying Burrito Brothers を読まなければなりませんから。

About Einarson's book; i've read about half of this book yet and find it interesting. it's good written by interviewing survivors of the original band. i'm happy to find one where chris hillman & the co. are telling what it was as it was, not the myth of GP's.
so, this book is not for a fan of GP's but worth reading.

GPファンのみなさんもご一読されるとよろしいかと存じます。
November 29, 2008, 12:03 pm
The Keynesian moment

Uncle Alan and his counterparts, by controlling the money supply, could do the job of stabilizing the economy, and Keynesian fiscal policy seemed irrelevant.

To be sure, Keynes failed to foresee the postwar rise of the “marginal efficiency of capital” — the way that economic growth combined with inflation would create an environment in which interest rates were high enough in normal times that monetary policy was effective at fighting slumps. Hence the long era in which Keynes didn’t seem all that relevant. But his analysis remained as valid as ever, under the right conditions. Those conditions reappeared first in Japan during the 90s; now they’re everywhere.
http://krugman.blogs.nytimes.com/2008/11/29/the-keynesian-moment/
やっぱり最後に出てくるのが日本の失われた10年、その裏のゼロ金利政策の無力というわけですね。
by nk24mdwst | 2008-11-30 14:46 | 記憶