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2008年 08月 29日 ( 1 )

fear and rage

昨日は、昼過ぎに、バケツをひっくり返したような雨が降り、市内を流れる川の水位がみるみる上がり、また冠水、浸水の被害が出るのではという日でした。
夕方は、小雨の中で、素晴らしい夕焼けと虹を見ることができました。

昨日の午後、Oliver Wendell Holmes, Jr.判事のかの文明と租税の話についてブログに書いたこととを思い出し眠れなくなりました。
租税と戦争、アメリカで免税団体である教会、それをなじるFZの言葉、戦時国債と日本への無差別空爆、新型爆弾の人体実験と思い起こし、ここからが例によって私の常なのですが、突然違うテーマに行き着いて、既に怒りで眠れなくなっている状態に収拾がつかなくなりました。

裁判員制度です。
先日、新聞で裁判員制度の問題点を取り上げていました。その記事によると、最高裁は否定するものの裁判員候補者から裁判員を選任するときの想定問答集がHPの中にあり、そこから説き起こして問題点を指摘していました。
想定問題集はまだ見つけられないのです。なにせ、膨大な広報データばかりあって時間をかける余裕もないものですから。ただ、代わりに既に、各地で行われている裁判員制度の予行演習の様子は広報として大きく取り上げられているのをいくつも読むことができましたけれど。

想定問答集にあるとされた質問は、私が予想したものと同様のものでしたので、自分で他にどんな質問があるか考えてみたのです。別にひねり出す必要性はなく、アメリカの陪審員選任のときの質問を思い浮かべ、日本の事情を加味しただけですけれど。
こんなことを考えているだけで眠れなくなるのは当然ですが、結局、裁判員制度の是非そのものについて考えてしまうことになります。

現在予定されている裁判員制度は、特定の刑事訴訟においてだけがその対象です。そのあり方について、以前から、そして今も色んな問題点が指摘されています。

個人的怒りが治まらなくなったのは、裁判員制度に関し、具体的な制度設計自体が現在のものでよいと考えていないこと、おそらく行われるであろう実際の制度運用が引き起こすであろう問題に対する危惧のせいではありません。
制度運用自体は、現実に運用してみると、案外、最高裁や政府・法務省が考えているようにはならず、私の危惧しているような事態にならない可能性が案外高いのかもしれません。

公平な裁判を行うことのできる裁判員制度というものが存在するという前提をおかないと政府も最高裁も嘘をついていることになるので、私は彼らを嘘つきだと思いますが、嘘に騙されたことにした上で、裁判員制度の適用対象が一定の刑事裁判だけに限定されていることを考えてみました。

公平な裁判が求められ、それも一般の国民の常識的判断が求められ、裁判員制度が、公平な裁判を担保することに一定の有効性があるのだとしたら、いつも国民が負ける行政訴訟において、なぜ、裁判員制度を導入しないのかという問題が頭に浮かび、眠れなくなりました。

ここで、いかんと思い、音楽を聞きだし、それに集中したら1時間近く、細部までよく聞こえ色々考えたのは事実ですが、眠ることができました。

現行の裁判員制度は、法解釈をせず事実認定をするだけという大前提があるので、法解釈をすることがほとんどの場合、最大の論点である租税訴訟を含む行政訴訟において現行制度のままの導入は不可能であること自体は当然のことです。
しかし、行政訴訟において、その当事者である国民の参加の道を開くという考え方がこの国において出てくるのは、百年河清を待つのと同じでしょうか。

行政訴訟においては、行政が行った行為が法的に正しいかどうか問題となるわけです。行政が行う行為、つまり行政処分等を行うための資金は国民の税金ですしその行政処分等は国民のために行われるものであるはずです。
また、行政処分等の対象となるのはこれまた国民なのです。

非常に難しい法律判断が必要だということが適用除外の理由とされることは充分に認識していますし、日本の現行の法体系、裁判体系において無理があることも認識しています。しかし、同様の矛盾は、今回の裁判員制度においてもあるのではないでしょうか。

誤解を招くといけないので、あるいは、誤解をさらに深めるかもしれませんが補足です。

上では行政訴訟というのを明確に定義せずに用いていると自分でも感じますが、行政が行った、行う、行おうとしている行為に関して起こされる訴訟全体、つまり、原告ないし、被告として行政機関が登場する訴訟全般において提起すべき問題点があるのではないかということです。

行政不服審査法の改正も行われようとしていますが、こちらは、訴訟ではなく、審査請求一が対象ですね。税大論叢においても税務行政と行政不服審査法の抜本改正についての論文が掲載されています。神川 和久 税務大学校研究部教育官による
「行政不服審査法の抜本改正に伴う税務行政への影響等について 」
です。

導入されようとしている裁判員制度の是非とは別の問題として、仮に、司法に対する市民参加、国民参加ということが望ましいという立場に立つのであれば、行政の関わる訴訟においても一部に市民参加、国民参加の余地があるのではないかという論点です。
この点に関し、特定の行政訴訟に関しては、租税訴訟、知財訴訟等に代表されるような専門性、特殊性、技術性が高いものが存在することは充分に認識していますが、全てを一律に除外すべきという結論にはならないと考えます。

ドイツにおいては財政裁判所において租税訴訟を取扱い、市民裁判官が任用されているというような海外事情については、背景が異なるので、日本における導入の是非論にまでは簡単に踏み込めませんが、それぞれの国において色々な制度があるということは、事実です。

それから、アメリカの陪審制度において、陪審員が量刑判断する場合があるということも最近、知りました。

昨日の晩、聞いたのはFZのYCDOSAM Vol.5です。デジタル向きに作り変えてありますね。
細部がよくわかる、演奏、言葉、双方です。

アナログのLPというのは、原音をそのままレコード盤に刻んであるわけではなくて、RIAAカーブにより変換されて刻まれた音を、針で拾い、さらにプリ・アンプでもとの音に変換しパワー・アンプで拡大し、スピーカーを鳴らして聞くということになるのですね。

そもそも録音に用いられたオープン・リールのテープ自体も録音開始と終了時ではリール径が異なるのでスピードを変えながら録音したのですね。

かつてのオーディオ・ブームの時代には、このような複雑な過程を経ていて、それぞれの段階で各種ノイズ、歪みが生じるのをいかにして解消して再生できるシステムを作るかというのがマニアの課題だったように思います。
さらに、カートリッジやターンテーブル、アーム、アンプ、スピーカー、コード、聞く部屋の環境、かけるレコードの音楽の種類、メーカー、日本版か英盤、米盤科など、無数の順列組み合わせがあって、さらに同じアンプやスピーカーがいつも同じ音でなるわけではないというのも事実でした。

高価な機器をそろえているかどうかは別にして、メーカーによってそれぞれ固有の音を持っていましたし、聞くほうの好みもあったわけです。
いずれにしろ、デジタルよりもはるかに臨場感があるように聞こえる瞬間があったのも事実です。臨場感として心地よいものだとここの人間が錯覚するといったほうが正確かもしれませんが、よい録音のレコードは良い音がしました。SP も、馬鹿でかい装置で聞くと大した音がします。

真空管なんて歪みの極みなのかもしれませんが、管球アンプ独特の音がするのも事実です。
ただ、今のCDをマッキントッシュの管球アンプ+JBLのパラゴンで聞いたらどんな音がするか。

友人が10数年前からパラゴンを持っているので聞いたことがありますが、ちゃんと発売されたときの音がします。つまり1950年代のAMラジオの音なのですね。細部が明確に見えるとか、臨場感などというものとは無縁な音作りが設計思想に反映されているように思えます。

自宅にあるヤマハの1000Mは、25年以上前に片方100,000円しました。当然、二本ありますが。今、仕事場では、MP3に圧縮した音源を、ヤマハのスピーカー1本以下の値段のシステムで聞いてますが、それなりに良い音がします。
居住まいを正して聞くなんて事はしませんけれど、ちゃんとベース・ラインもバスドラも聞こえますからね。畳の部屋では低音がどんなにいいスピーカーがあっても低音が駄目でした。

でも、なにか、雰囲気、錯覚として頭の中で膨らむものはデジタル化で消えたように感じます。

ボンヤリしているほうが良いものも、世の中にはあるはずなのですけれど。
by nk24mdwst | 2008-08-29 07:29 | その他