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day 9, no one's perfect

今朝は、10月らしい秋晴れ、遠くの山がきれいに見えました。
風は、少し涼しいのですが、日差しがきついと感じます。

足の状態は、変化なし。足の小指と薬指の固定と包帯、サンダル履きには、慣れました。ただ、足をかばっているせいか、先週末の東京強行軍のせいか、おそらくその両方のせいでしょうが、身体の節々が痛いです。
集中力が続かず、直ぐに眠気がします。夜は、寝床に入って直ぐに寝てしまい、朝までぐっすり寝ているのですが。
暑くも寒くも無く、一番眠るのにはぴったりの季節ではあります。

今朝は、朝一番にドクへ行ってきました。といっても、飼っている犬の耳に炎症ができたからです。
我が家のピョンキチは、臆病者で我が家の敷地の外へは絶対に出ません。溝を越えられないのです。金属製の網目の入った蓋がしてあるので、溝の底が見えるのが怖いのでしょう。
車に乗せられると獣医さんに行くということなので、乗った途端に不満の声を上げました。

今日は、日本経済新聞の経済教室欄に竹中平蔵氏が書いた「信認の危機克服への正念場」に関して感想を一言述べたいと思います。金融危機と世界 行方を探るというシリーズの三回目です。

日経は、同氏の小論のポイントを、・政治の事態掌握能力に対する不信が問題、・90年代の日本から学ぶべきは「失敗事例」、・政治は非常時モードで、政策を総動員せよ、としてまとめています。
このまとめ自体に関して特に異論はありませんが、真ん中に大書された「許されぬ『政治の失敗』」という部分について感想です。

竹中氏のさす政治の失敗というのは、具体的には10月3日のアメリカの下院における金融危機対策法案否決を指しています。

竹中氏は、小泉純一郎首相の下、日本において市場主義経済原理によるいわゆる「構造改革路線」を推し進めた中心人物です。
日本におけるバブル崩壊に伴う不良債権処理の発生とその処理のもたつきは、経済政策よりも政治制度改革を優先した政治の誤りだとしています。その結果、失われた10年という長引く金融システム不全による不況が長引いたわけですが、それを解決したのは、小泉純一郎政権下で金融再生プログラムが作られてからであると自画自賛しています。余談ですが、麻生太郎現首相は、当時、このプログラムに反対したとも書いています。

金融再生プログラムは、大きな出血を特定の地域や業種に強いることになったのであってその成果を簡単にほめるだけでよいとは考えませんが、本来は、宮沢首相政権下でこのような施策がとられるべきだったと考えてはいます。
そのほうがはるかに傷が小さかったはずです。いずれにしろ、今となっては全て繰言です。

今回の世界的金融危機、さらに、それが実体経済にも大きな影響を及ぼしつつあることが明白になってきたわけですが、その原因は、一義的には、まず、市場の失敗であったと率直に認めています。
そして、次いで、市場の失敗に対して政府が正しく対応すべきであったのに、アメリカにおける金融対策法案の提出と10月3日の下院の否決で政府の政策の不信が高まり、それは政府の不信であるとしてます。

このあと、日本の例を引いていて、これを政治の失敗であるとしていて、この政治の失敗の教訓をアメリカが活かせていないとし、政治の失敗があってはならないとしています。

市場経済原理主義者だと思われていた竹中平蔵氏が市場の失敗を簡単に認めたのには、潔いと褒めるべきなのか、つまり君子豹変すなのか、あるいは宗旨替えなのか、はたまた単なる日和見主義なのか私にはわかりません。

日本の不良債権処理が本来擁したよりも多額の税金投入によってなされたということの背景には、事を先送りしようとする官僚システムの本質から来る、あるいは、前例の無いことに対する回答発見能力を持たない、旧日本軍部もそうでしたが、日本の官僚機構の、つまり政府の失敗であった部分が先ずあったと思います。
また、日本においては、政策立案能力はアメリカとは異なり情報を独占しているキャリア官僚システムにしかないわけですが、このシステムが事態を正確に把握できず適切な立案ができなかったことがあったのは事実ですが、ついて、立案したものを政治家、国民に示して国会で立法し、それを実行することができなかったという意味で政治の失敗があったという言い方ができるかもしれません。そして、それを立法し、実行に移すことができたのは小泉純一郎首相という強い指導力を持つ政治家がいたからだというのは、ある意味で正しいかもしれませんが、危険な考え方なのではないかと感じます。

非常事態におけるポピュリストによる強権的な政策実行を認めるという考え方に通じるわけですから。

市場も政府も失敗するというのは、どちらも人間ですから当然ですし、政治も人間が行うのですから当然失敗をするわけです。それらを前提として、最善の道をいかにして見つけるかという努力が必要なのだと思います

政府主導の経済運営はいわゆるケインズ派の考え方であり、政府の失敗、大きな政府論の問題を論難して台頭したのが、いわゆるフリードマン以下の新自由主義経済学者の一派ですね。竹中平蔵氏もその流れを汲むわけです。経済学者、ないし、エコノミストなのでしょうから。
しかし、今回、市場が暴走しそれを止めるのは政府の役割だ、政府が失敗したと市場原理主義的立場からいわれると、おいおいといいたくなりますね。
まあ、アメリカ的なプラグマティズムからいえば、そんな党派的な論議はどうでもよくなるわけですし、イギリスのエコノミスト誌のような保守派の牙城であっても自らの城が足元から崩れていくことが明らかとなれば、政府が何とかしろっていうわけです。

政府は、国民の税金によってまかなわれるものであるということを念頭においておく必要があります。つまり、どのような方法をとろうと最終的なつけを払うのは国民でしかありえないのです。現在の国民であるか、国債発行に伴えば将来の国民ということになるかという違いがあるかもしれませんが。

政府が市場に介入するのではなく、市場管理システムを作るべきだというのが市場原理主義者の言い方になるのでしょうが、市場介入と管理・監視との境目ってそんなに明白じゃないですよ。

最大の問題は政治の問題という部分ですね。

確かに経済金融政策は非常に専門性が高く広く国民的合意を得ることは難しいとは思います。しかし、一応、民主主義国家の体裁をとっているわけですから、それをなすための最善の努力をなすべきですよね。

アメリカの10月3日の下院の否決は、政府の失敗(法案の正確自体が曖昧だった。)以上に政治の失敗と位置づけたいのかもしれませんが、そうではないのだと思います。
結果論ではなく、あの時点でアメリカの下院は法案を可決すべきだったと思っていますが、政治の失敗を簡単に言ってはいけないのだと考えます。

ノーベル経済学賞を取ったコラムニストは、在野で勝手に言っているだけです、影響力があるとしても。それに対し、竹中平蔵氏は、日本で閣僚を務め、国会議員でもあった人です。政治の失敗ということに関してそれをいうときは、立場が違うはずです。
民主主義を否定することにつながりかねません。

NTUの活動は、その意味で、政治の失敗が起きないように、いかに国民に正しい情報を与えるべきかという点で有意義だと思います。

竹中氏の議論が彼の従来からの論理との整合性があるかどうか以前に、民主主義、それも代議員制による民主主義の本質を軽視しすぎていると感じます。

議会制民主主義は、最善ではないとしても現時点においては最も優れたものとされているわけです。経済学的見地から、最善の方策を最善のときに行うのには必ずしも適さないものであることは私も認めます。だからといって、ポピュリストや専制君主を認めるわけにはいきません。

民主主義のコストとして甘んじて受けなければならないものがあり、それにより便益、ベネフィットを受けるわけです。このコストとベネフィットの最適なバランスなどというものは100人100用と思います。

経済活動に関する政府の介入に関しては、政府の介入を是とするケインズ的な立場と自由な市場が全てを決定するべきだとするハイエク的な立場があるかと思います。フリードマンはあまり好きではありませんし、ブキャナンは何をいっているのかわからないのです。
いや、ブキャナンは難しい言葉を羅列して、結局人間は失敗するということを再確認しているに過ぎないのだと思います。それと、私のこれまでの書き込みを見ていただければわかるように、個人的には、官僚機構や組織には体質的に反発する部分が多いというの本質なのです。

さはあれども、ということです。

ケインズは、最も優秀な賢者の集団がコントロールするという前提でしょうね。ハイエク的な自由市場観というのも、賢者が対等な立場で交渉するというありえない前提に立っているように思えます。
自由な市場は、情報の非対称性の問題等があって、結局、強者が勝つ、先にスタートしたものが勝つという点で、見せ掛けの公平性、公正性しかないのだと思います。

民主主義には、コスト、いや、代償というべきですね、万人が満足するということはありえないだけではなく、迅速ないし決定に向かないというような問題があります。

きょうは、Peter Green 時代のFleetwood Mac をずっとかけています。Jeremy Spencer, Danny Kirwin の三人のギタリストがいるこの時代のマックになぜか惹かれるものがあります。
遅れてきたブルース・ブーム・バンドだったというか、クスリや、宗教や、金や何やら、1960年代末期の矛盾を一手に引き受けてしまったバンドのように感じます。

シカゴ・ブルース・カヴァーといってしまえばそれまでですが、グリーン時代は、彼らの生の声が聞こえるように私には思えます。Cream にはないものです。

Peter Green と似た感性を持っていたのは、Michael Bloomfield だというと、どちらのファンからも叱られそうです。
by nk24mdwst | 2008-10-16 13:56 | その他


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