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grammer

Emily Dickinson です。

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      A word is dead

A WORD is dead
When it is said,
  Some say.
I say it just
Begins to live
 That day.

詩の解釈は基本的に今までしてきていないのですが、短いので挑戦、というわけでもないのですけれど。

「言葉は、死んでいる
発せられたとたんに
と人は言う。
私はこう言いたい
言葉は生きはじめるのは
その日からなのだと。」

それを言っちゃお仕舞いよって人は言うけど、言わなきゃわからないじゃないって私は言いたいの・・・などと勝手に解釈しました。

森の誰もいないところで倒れる木の音を聞く者がいないとき、その音は存在するか、という問いに通じるのかなどと考えるのは私の勝手です。

アメリカのロー・スクールは、職業学校であり、法学の体系的概論は教えないのだという話を聞きました。語学教育でも同様で、音楽のように耳から覚え、grammar つまり文法は教えないのだと。文法は最後に少しやるだけだと。

このロー・スクール職業学校論は確かに一理ありますが、その理屈でいけば、アメリカのメド・スクール、つまり医学部もGraduate School なので一般の大学を卒業した後で行く職業学校だという理屈になります。
Riberal Arts に関する部分は、ロー・スクールやメド・スクールに入る前の段階でラテン語教育も含めてなされていて、人間形成のための基礎はなされているという認識が前提にあるのではないかと思います。

あと、娑婆に出てしまえば資格なんて何の役にも立たないのであって実力がすべて。実力が身につくかどうかは、もって生まれた資質、経験を知識に変える能力を持っているかどうかだと思います。

というのが、画に書いたようなアメリカ立志伝的な理想像ですが、実際、実力主義ではあるにしろ、強力な縁故主義が存在するのは事実でしょう。階層移動に関してアメリカが非常に開かれているというのは幻想にしか過ぎません。

潜在能力があったとしても実力を付けられるような経験を積める部署に配されるかどうか、法律家でいえば連邦最高裁とか、ワシントンの大法律事務所に雇われるかどうかというのは、生成期が優秀なだけでは駄目でしょう。コネクションが必要です。
300年来のコネクションが生きているのだから日本よりも古い社会じゃないですか、アメリカのある本質的一面は。

確かに、一般的な日本の教育の仕方とは決定的に異なります。

個人的な疑問ですが、グラマー、つまり文法の教育が有意のものであるかということがまずあります。文法が存在する前に言語は存在し、文法はそれをあと知恵で体系化しようとしたものです。学問としての文法学には意義があるでしょうが、母国語ではない言語を学ぶときに文法が最優先なのでしょうか。母国語においてもそうなのでしょうか。
例えば、英語を例に採ると、文法の例外が非常に多いというべきです。いわゆる、ノルマン・コンクエストによってフランス語経由でラテン語源の用語が少なからずあること、さらに、アングロ言語以前のセルティック語源のものも存在することをあげてもよいです。
このあたりのことは、イギリスにおける階級による発音、語彙、用法の違いに如実に現れているわけです。このような事実を押さえた上でどう捉えるかということです。

さらに、詩人や作家というような文学者は新たな言語、用法を用います。口語を重視するのは現実的な方法であり、それをおざなりにする日本の外国語教育の失敗をあげつらうまでもないでしょう。

いずれにしろ、アメリカのロー・スクールの学生は、大学において学士号をとっているので基本的にラテン語の知識があるはずです。このラテン語の知識は、判例法だとはいうもののロー魔法にまでさかのぼることを要求するアメリカの法曹にとって必須のものだということになるのでしょう。
ラテン語ほど文法的に整合性のある言語はありません。

ラテン語から派生した言葉としては、スペイン語、イタリア語、フランス語、ポルトガル語等がありますが、スペイン語が最も古い言葉の要素を持っています。
逆にいうと、発音と表記は基本的に同じですし、文法も理にかなっています。
イタリア語やフランス語は方言なので、発音しない音を表記したりしていて難しい部分があります。

英語はノルマンの征服でアングロ・サクソンの言葉(さらに下層にけると語源の言葉があったりするのですが)の上にラテン系のフランス語語源の言葉が載っているので非常に複雑です。
例外ばかりで、文法なんて体をなしていません。

まあ、日本語もピジン・コリアンだと私は考えていますけど。

次に、比喩としての音楽について考えてみます。
音楽についても、譜面を読めず、全て耳から覚えるという人もいます。しかし、読譜能力という一定の論理システムに対する理解が要求されるのも事実です。ここでいう譜面は、単に西欧古典音楽の譜面のみを指してはいません。
また、西欧古典音楽の譜面を読み、理解して演奏するということは、誰もが同じ演奏をするということとは違います。演奏技術の問題とは別です。
西欧古典音楽おいては、ロックなどよりも小節の伸縮、リズムの伸縮、タイムの変動、揺らぎがあるのが通常です。タイムの揺らぎに対して、厳格なロックは、逆に異質なものと位置づけることも可能なのかもしれません。
揺らぎのあるタイムの国に生まれながら、ロック至上主義者として音楽を聴いてきた私などはかえっておかしいのかもしれません。ある畏敬すべきブロガーの受け売りだと正直に書いておきます。
アフリカ音楽や、その影響を大きく受けているアフロ・キューバンをはじめとするいわゆるラテン音楽には、ポリ・リズムやポリ・フォニーがごく当たり前に見られますし、それとはまったく由来を異にするインド音楽においては、芸術音楽においても大衆音楽においてもどちらも普通に見ることができます。
絶対音感の話はやめます。
世界的に見ると異端である平均律と和声の世界でも小節、あるいは、リズムの伸び縮みがあり、ポリ・フォニー、ポリ・リズムもあるのだということです。

文法と語学習得能力に関して言えば、ノーム・チョムスキーは、全ての人間の言語には生成文法という普遍的特性があるとする言語生得説を唱えています。認知言語学説はこの説を批判しています。私には、これらの説の優劣を評価するだけの能力も知識もありませんが、チョムスキー的な考え方は、根本的な人類平等思想を論拠としているわけです。まあ、チョムスキーは、コミュニストであるのは間違いないところですけれど。
チョムスキーの主義に賛同するかどうかとは別に、個人的には言語生得説には、一定の説得力があると感じます。逆に、これを否定する立場は、優生思想と結びつきやすいというべきです。

法学を社会科学の一分野として位置づけられるか、あるいは、それ以前に租税方が法学の一部なのかなんて議論もあります。
ダーウィンの進化論なんて社会進化論のほうが先にあるのではなどと考えてしまいますが、それはともかく、進化論において現在優勢な遺伝子浮動による中立的進化説に対置するものとして、スティーヴン・グールドに代表される断続平衡説があります。
断続平衡説というのは、生物の進化は漸進的に行われるのはなく、ある日一気に大進化が起こるという考え方です。全身的進化の立場をとると、鳥の誕生とか、鯨の誕生といった進化における中間形の化石の不存在、あるいは、中間形の脆弱性を説明できないのですね。この断続平衡説は、社会科学的に言うと、一時の大きな変化を前提とするという意味で、革命を容認する、言い換えるとマルクス主義的な考え方に通じます。

さらに飛躍して、一般相対性理論に基づくビッグ・バン理論は、神の存在、唯一絶対の一神教の世界の考え方と親和性があります。
それに対して、ノイマンの不確定性原理の考え方は、確率論に基づく考え方で、色即是空、東アジア的な多神教の考え方と親和性があるように感じられます。

さて、この文脈の中で、中小企業の親父としてのFrank Zappa はどこにいるのか。

ここで絶対音感に再登場してもらいましょう。

FZのバンドでいえば、Flo & Eddie は、いわゆる perfect pitch の持ち主だったと思いますが、FZと共演した日本女性で自ら絶対音感の持ち主だと宣言した人を知っています。

Yoko Ono です。'Playground Psychotics'(John Lennon のSometime In New York と同じコンサートです。サングラスをして付け髭をつけたEC がいたりしますけど)を聞いていると、このときのMothers は、フロー&エディーが主役なんですけれど、小野洋子さんの歌声はそれほどの違和感なしに聞くことができたのが最近の発見です。

35年前に、レノンのLPで聞いたときは、こんなもので金を取るかと感じましたが。
ミックスが違うのです。Mothers の演奏に焦点を当てているわけですが、そうするとオノ・ヨーコの奇声は、全く自然に溶け込んでしまっちゃったのですね。
by nk24mdwst | 2008-03-30 09:29 | 租税法(日本)


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