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I'm nobody

またEmily Dickinson です。

         I ’M nobody! Who are you?

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I ’M nobody! Who are you?
Are you nobody, too?
Then there ’s a pair of us—don’t
tell!
They ’d banish us, you know.

How dreary to be somebody!
How public, like a frog
To tell your name the livelong day
To an admiring bog!

なんという絶望感、疎外感なのでしょう。

19世紀のアメリカ東海岸の女性の詩ではありますが、現在では誰もが感じることではないのかと。

The Prisoner におけるNumber 6が常にNumber One は誰だと問いかけ続けていますが、これはこだまのように自らに跳ね返り、ナンバー6、お前は誰なのだという問いになってしまっているように感じます。

ナンバー6が自らの素性を明かさない、明かせないのと同様、ナンバー1が誰かというのも永遠のなぞです。

例によって話は急に変わるのですが、Frank Zappa の音楽の本質をSatire としてとらえるとした場合、それをどう評価するかということはかなり難しい問題です。
FZは、非常に優れたsatiristであったのは間違いないと私は考えますが、優れているがゆえに強力な同時代性を持っているわけです。
この優れて同時代批評的な精神は、その時代を理解できないと評価をすることができません。

私は、個人的には、1971年のフィルモア・ライブあたりから発売時にレコードを聞いていますが、はっきりと時代批評精神を理解して聞くことができるようになったのは1980年ごろです。
そのころに追いついたような気がするのです。しかし、当時の私は、FZがやっている音楽自体については、1960年代の焼き直しをやり続けている、自己複製をしているとしか感じられませんでした。
FZ自身は、そのあたりもおそらくきちんと自覚していたのは間違いないところではありますが。

1970年代初頭の Flo & Eddie にAynsley Dunbar がドラマーだった時代のMothers がやっていた、当時のLAの音楽シーンに対する斜に構えた風刺劇は、残念ながら当時、日本の田舎の高校生だった私には難しすぎました。
Happy Together のキラー・ヴァージョンがあってもその真意がつかめませんでした。

Terry Bozzio を擁してディスコ・ブームを皮肉った時代に私は、音楽的に追いついたのが今の実感です。理解できたといっているわけではもちろんありません。

Freak Out!における、ドゥー・アップやストレートなブルース・ナンバーとは裏腹な当時のアメリカ社会批評の意味なぞ今頃になってそうなのだとわかっているだけです。

音楽による社会批評に意味があるか、あるいは、音楽業界風刺を意図した音楽にどんな意味があるかということ自体については、留保せざるを得ません。

ブーレーズやアンサンブル・モデルンによるFZの曲をいわゆるアヴァンギャルド・クラッシックとして聞くと、逆にその聞き易さに驚きます。逆に、譜面に書いてあるとおりだからそうなるだろうという話です。

1968年ごろにズービン・メータとロサンジェルス交響楽団がFZに委嘱して作曲させ、Mothers が共演した演奏がきちんとした形で残っていれば、後年のフル・オーケストラ・ヴァージョンに対する評価も違ってきたかと思いますが。

FZが、Live で徹底的に腐しているPeter Franmpton ですが、リアル・タイムでは個人的にフランプトンのことがよくわかりませんでしたが、今は、Eric Clapton よりはるかにましだと考えています。Steve Marriott とフランプトンは好きなものは好きとしかいえないのですね。
by nk24mdwst | 2008-03-22 22:39 | 音楽


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