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hunch men the bunch

今日は、秋晴れ。天気を書き込むのは夏休みの日記か?!

やたらとHerb Pedersen 参加のアルバムを持っている理由のひとつは、Sierra Records のせいだと昨日、夜、寝る前に気がつきました。
ここは、個人経営のお店で、自主制作盤もありますが、よそから仕入れたものも得っています。品揃えは、The Byrds を中心としてその周辺から派生したものという感じです。ブルーグラスもその延長線上である、というよりも、オーナーは、Old In The Way のメンバーと創設時以来の付き合いなのだそうで、こっちが本筋なのかもしれません。
さすがに、クラレンス・ホワイトのTシャツには手を出しませんが。

値付けは、アマゾンより、1ドルほど高いですが、ぼったくりはしないし、逆に、おまけをゴッソリつけてくれるのですね。一定額かったら、10枚おまけって感じですから。
GPのボックスは、まだ少し残っているよってメールが来たのですがHPからは消えていますね。

ここで、突然、裁判員制度の話に方向転換です。

以前から、日本の裁判員制度に疑問を投げかけてきいるわけです。市民の司法への参加を否定するつもりはさらさらないわけですが、現行制度には論理矛盾があるというと考えているわけです。

陪審員制度は、裁判のたびに個別に選任され、事実認定だけを判断する。つまり、被告が起訴されている罪状を否認しているのが前提で、その罪状に相当する行為を行ったかどうかを、法的手続きに則った証拠、証言等により判断する。
全員一致が原則で、有罪だとなった場合においては、量刑判断は法律の専門家である裁判官が行う。訴訟指揮をする裁判官は、検察側、弁護側の主張を交通整理し、法律的な説明が必要な場合はそれを行う。

裁判員制度においては、量刑判断まで行うので、当然、先例等を知る必要、つまり法的知見を要求されているのですが、制度上は、法律判断、つまり法律解釈等についての判断は裁判官が行い、事実認定と量刑判断をするという、矛盾した制度だと考えています。

しかし、法解釈論と事実認定論の線引き自体が、日本とアメリカとでは根本的に違うわけですが、そのこと自体が、理解されていないのではないかと感じます。

今まで行われてきている裁判員裁判では、基本的に罪状認否において被告は罪状を認めているものばかりですから、量刑判断だけが争点です。このような訴訟の場合は、陪審制度の下では、陪審裁判の対象にはなりえません。量刑を決める裁判官による裁判が行われるだけです。逆に、ゆえに司法取引も可能だということでもありますが。

例えば、家族内で暴力を振るう人物がいて、自分を含めた他の家族の命を奪われる危険を感じた、家族の一人が、暴力を振るうその家族を結果的に殺害したとします。
このとき殺害した人物(被告)が他の家族を守るために殺したと認めた上での裁判ということになれば、情状等酌量した量刑判断の裁判になります。
しかし、被告が、正当防衛で無罪を主張した場合は、陪審制度においては、正当防衛であったかどうかという事実認定が行われるわけです。私は、伝統的な日本の法律論における、要件事実論と法解釈論の区別に基本的に疑問を持っている人間なので、この問題は事実認定論なのだと理解します。

日本では、この正当防衛かどうかという問題について、実際にあった事実がどうなのかということの前に、正当防衛とは何をもってそういうのかという法解釈論が登場するのですね。その上で、その解釈論に基づいて事実認定に移る。解釈論で定義された正当防衛という概念が、要件事実論により認定された事実において合致するのかどうかという判断をする。

アメリカ流であっても日本流であっても結局同じことをすることになるわけです。ただ、形式が、裁判員と陪審員と異なるだけです。事実認定をするだけで、つまり、やったかやらなかったか、この場合でいえば、正当防衛かどうかという事に関して法解釈を抜きにして事実認定だけをするという意味では、同じです。しかし、どこか、決定的に違うような気がするのですね。裁判員制度の場合は、審理に裁判官が参加するということの意味は、結局、どう位置づけられるのでしょう。

正当防衛という概念に関する法解釈は法律専門家である、検察と弁護側の双方がそれぞれの論理を展開しその上で同じく法律専門家の裁判官が判断する。正当防衛とは何かということをです。その上で、問題の殺害が、正当防衛に該当するかどうかは裁判員と裁判官が合議の上、多数決で決する。

正当防衛概念の立証については、検察、弁護双方が行いそれを当然、裁判員も聞くことになるわけでしょうが、概念の範囲を決定するのは裁判官ということになるわけです。

グダグダ、回りくどくわかりにくい文章で堂々巡りのことを書いているように見えると思います。私の理解不足、説明力不足があるので仕方がありません。しかし、いいたいのは、法解釈を事実認定と切り離すということができるのか、という素朴な疑問なのですね。

アメリカの連邦租税裁判所で、租税裁判所長官に、租税訴訟において争点となるのは、事実認定なのか法解釈なのか、どちらが多いのだと質問したことがあります。
ちょっと間をおいて出てきた答えは、「いい質問だ。(さらに一呼吸)基本的には、事実認定の問題がほとんどだと考える。言葉を変えると、法に従って事実を見るということだ。」という返答が帰ってきて、私は、個人的には非常に納得したのです。
ただ、この話は、日本へ帰ってえらい税法学の先生に話しても、アメリカは法学体系論の無い国であって・・・と否定されました。

上記の事例においては、裁判官が正当防衛概念を最終的に判断するとしてもそれは、検察、弁護双方の主張を聞いたうえ、先例を踏まえて判断するのでしょう。しかし、正当防衛とは何かということ自体が事例においてはすべてだと思うのです。ただ、一般的な正当防衛概念というものを作り上げることができるということと、個別の事件が正当防衛に該当するかどうかは、その事件における事実認定の問題が関係するはずなので、要件A,B,C等をクリアしているかどうかというような判断で決められないのだと考えます。

例えば、正当防衛かどうかという事実認定において大事な基準としては、殺意の有無というのがあるのではないかと考えます。殺意を持ちあらかじめ周到に準備した正当防衛というのはありえません。その場の状況においてとっさに自己ないし他の人を守るために行った行動の結果、人が死んだということですね。そのとっさの行動において殺意があったかどうか。
咄嗟の行動であるかどうかという認定、咄嗟の行動であるという認定をした上で、かつ、殺意があったかどうかをどう認定するか。検察とすれば殺意をどう立証するか、弁護する側としては、殺意が無く自己防衛行動であったことをどう立証するか。

しかし、殺意の立証といいますが、内心をどう立証するかというのは難しいですね。殺意が会った、あるいは、無かった、いずれの立場に立つにせよ。状況から立証するしかないのでしょう。
普段から「あんなやつ死ねばいいのだ」と言っていたとしても、それは、そのとき殺意をもって行動を行ったことの証拠にはならないでしょう。

この内心をどう認定するかということが争点だと思われる税務訴訟があります。地裁で納税者が勝ち、控訴審では、課税庁が勝ちました。この控訴審判決はひどいもので、租税回避の意図があったという前提に立ち、納税者の行った行為は脱税に当たるとしたわけです。
客観的な事実認定からすれば、明文上の規定でそのような納税者の行為を否認する規定が存在しないにもかかわらず、租税回避の意図があったから納税者の取った行動は脱税だと決め付けたのですね。もちろん、先に結論ありきの判決なのですが、それにしても、客観的な状況を見る限り税法上分の明文の規定では、課税できないのです。

内心における租税回避の意思を認定し、その結果、納付税額が少なくなった場合は、明文上の否認規定が無くても、脱税だと認定する等という判決が確定してしまうことは、租税法律主義の形骸化そのものです。
この訴訟事案は、一般に武富士事件として新聞等を賑わしました。最高裁に上告されています。
武富士事件の概要等については、別の機会ですね。

夕べは、カントリー・ガゼットを聞き始めてすぐに寝たようです。
by nk24mdwst | 2009-10-14 11:07 | 租税訴訟


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