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memory of the genocide

今日は、終日雨模様のようです。昨日から、気温が下がって、寒く感じます。

物騒なタイトルをつけてしまいました。タイトルに関しては、「北京の秋」スタイルで行こうとしたのが失敗のもと。結局、自分が困る。何を書いているのかタイトルからは不明。
ボリス・ヴィアンの小説のタイトル「北京の秋」は、北京とも秋とも無関係なのです。だから、タイトルと中身に関連がないというスタイルにしようと馬鹿は、考えたわけです。

でも、関係ないようにしていても、中身が分裂しているのでいつの間にか関連していたり、面倒くさくなって天気をタイトルにしたり。ある規則性を持たせようと試みたこともごく初期にあったのですが、タイトルを考えるのに時間がかかってしまいやめました。

タイトルは、他でもない私の住んでいる地方に関してそれが存在するかということです。歴史の教科書、中学校レベルでもそれがあったことを示す記述があるのです。
しかし、実際にこの地に住んでいる人たちは、そのことをどう思っているのか。集団的かつ潜在的記憶としてそれはあるのだと思うのですが、表面には、全くでていませんね。

大虐殺があったのは確かだと思うのです。そして、住人は、つまり、私などの先祖は他所から連れてこられたのだと個人的には認識しています。大規模だったのは違いなく、文化的な基盤を根絶やしにすることが目的だったはずなのですが。
私の住む県のほとんどの部分は、明らかに、人間が入れ替わっているのだと思います。今いるわれわれの先祖がどこから連れてこられたかも明らかです。
それこそ、DNA鑑定すると面白いと思うですが。

中山間地と称しておきますが、県庁のある町から遠く離れた地域では、従来からの人たちが生き残っているのだと思います。言葉が違います。それこそ、そのあたりは、縄文以来豊かな地域なので、その伝統を引き継いでいる人たちが住んでいるのではないかと思います。
山麓は、トチの実が採れ、自然薯やむかごその他山菜に恵まれています。放流のおかげでサケも帰ってくるようになりましたが、イワナや山女、鮎もいます。昔は、たくさんいたことでしょう。
今でも、クマやカモシカもいますしね。縄文の頃はそれこそ豊かだったと思います。

昔の城下町、つまり、現在の県庁所在地ですが、そこから南北に分断された地域では言葉や祭囃子に明らかな共通性が見られますし、そこに住む人たちの気質もわれわれが住む地域とは異なります。

私の住んでいるいわゆる、件の中心地帯の人間の根性のないことと言ったらどうしようもありません。根性がないと言う言葉には、お上を絶対視すると言う意味を含めています。

これ、誹謗中傷ですね。まあ、自分自身を含めていますが、県民性自体を否定していますから。

しかし、ジェノサイドがあって人間が入れ替わったと言う前提を置かないと、ジェノサイドを行った人物、当然、幕藩体制下でお殿様になるのですが、その一家を崇め奉るなどということはないでしょう。

数年前、その殿様の出身地へ行ったことがあり、バス・ガイドさんに誰かが、このあたりの方言を教えてくれと頼みました。その団体旅行は、東京とか大阪の人がほとんどだったので、フーンで終わってしまったのですが、私は、その方言を聞いて、背筋が凍りました。
分水嶺の向こう側なのに私の地方と同じだったからです。

ジェノサイドが行われたとき、最後の戦いがあった山城の跡へ行ったことがあります。怨霊などと言うものは信じない人間ですが、ゾクッとするほど怖かった記憶があります。
だって、昔の建物は一切残っていないのですが、柱を地面に立てた遺構が残っています。地面に開いた穴が黒く焼けているのですね。何があったかは明らかです。

これと同じ経験は、隣の県の焼け落ちた城の遺構へ行ったときもしました。指図をしたのは同じ人物ですけどね。

具体的な裏づけがなくて、断片的な知識と色々な体験を総合した結果なので世迷言だと思っていただければよろしいかと存じます。

ただ、このジェノサイドをやって、国替えでやってきた殿様一族、死ぬほど徳川さんが怖かったのですね。幕末の動乱期に一番遅れていたと思います。明治初期にテロリストが旧藩士から出るというお粗末。あのテロはまずかったと思います。
薩長土肥の明治政府も、この臆病殿様一家が怖かったようですね。通常なら、旧城下町に県庁を置くのにおかなかったのです。今は、違いますけどね。

江戸時代に百姓一揆が一件しか記録されていないという特異な地域でもあります。豊かだったので一揆を起こす必要がなかったと昔教わりました。あるいは、一揆が起こっても幕府にばれないように徹底的に隠蔽工作を行ったかどちらかですね。後者だとしたら、関係者は一切、根絶やしにされたのでしょう。
まあ、学校の郷土の歴史では教えませんが、一揆があったりお家騒動の類があったときは、反乱者は藩内でみな掃除し、かろうじて生き残った人たちに関しても地の果てまで追いかけて始末したのだと聞いたことがあります。

明治になった途端に地租改正に伴い大規模な一揆がいくつか起こっていますから、推測するに、後者かなと思うわけです。

明治初期の大規模一揆に関連した人物名がこのブログの検索キー・ワードに今月登場したのですね。

その人物については、個人的に非常に関心があるのです。その人物とその子孫と2.26事件はどうつながるのかという、個人的な関心があるという方がさらに正確です。
その人物の子孫の書いた文章が、高校の現代国語の教科書に出てきましたっけ。

まあ、偉そうなこと書きましたけど、私の家は代々、お百姓の家であります。庄屋とか名主、豪商などというものとも無縁でありまして。次男坊だった祖父は田んぼをもらえず、勤め人になったというわけです。
祖母の父、つまり、私の曽祖父ですが、こちらも農家の三男坊で、海軍へ入ったのだそうです。日本海海戦に参加したという話です。三笠に乗っていて、半日以上泳いでいたのを助けられたのだそうです。

親父は、山本五十六提督の写真を自分のアルバムの最初のページに貼ってましたね。軍国少年だったんでしょう。海軍に徴兵されたときには、乗る船もなかったのだそうです。

日本の家制度の善し悪しとは別に、田を長子に相続させるというのは、それでなくても規模の小さな日本農業を維持するためにどうしても必要な制度だったのですね。「タワケ」などいう言葉がありますが、語源は「田分け」で遺産の田んぼを遺族で分けることは馬鹿者のすることだといういみです。

ですから、相続税制を変にいじるのは、日本の既に死滅寸前お農業にとどめの一撃になるでしょうね。あるいは、深読みすると、個人が農地を所有して事業経営できないようにして、企業の農地所有を認め、大規模な農業経営ができるような地ならしが目的なのでしょうか。

それこそ、タワケの考える政策ですね。末代まで禍根を残します。
by nk24mdwst | 2009-04-25 07:49 | 音楽


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