カテゴリ:租税訴訟( 5 )

hunch men the bunch

今日は、秋晴れ。天気を書き込むのは夏休みの日記か?!

やたらとHerb Pedersen 参加のアルバムを持っている理由のひとつは、Sierra Records のせいだと昨日、夜、寝る前に気がつきました。
ここは、個人経営のお店で、自主制作盤もありますが、よそから仕入れたものも得っています。品揃えは、The Byrds を中心としてその周辺から派生したものという感じです。ブルーグラスもその延長線上である、というよりも、オーナーは、Old In The Way のメンバーと創設時以来の付き合いなのだそうで、こっちが本筋なのかもしれません。
さすがに、クラレンス・ホワイトのTシャツには手を出しませんが。

値付けは、アマゾンより、1ドルほど高いですが、ぼったくりはしないし、逆に、おまけをゴッソリつけてくれるのですね。一定額かったら、10枚おまけって感じですから。
GPのボックスは、まだ少し残っているよってメールが来たのですがHPからは消えていますね。

ここで、突然、裁判員制度の話に方向転換です。

以前から、日本の裁判員制度に疑問を投げかけてきいるわけです。市民の司法への参加を否定するつもりはさらさらないわけですが、現行制度には論理矛盾があるというと考えているわけです。

陪審員制度は、裁判のたびに個別に選任され、事実認定だけを判断する。つまり、被告が起訴されている罪状を否認しているのが前提で、その罪状に相当する行為を行ったかどうかを、法的手続きに則った証拠、証言等により判断する。
全員一致が原則で、有罪だとなった場合においては、量刑判断は法律の専門家である裁判官が行う。訴訟指揮をする裁判官は、検察側、弁護側の主張を交通整理し、法律的な説明が必要な場合はそれを行う。

裁判員制度においては、量刑判断まで行うので、当然、先例等を知る必要、つまり法的知見を要求されているのですが、制度上は、法律判断、つまり法律解釈等についての判断は裁判官が行い、事実認定と量刑判断をするという、矛盾した制度だと考えています。

しかし、法解釈論と事実認定論の線引き自体が、日本とアメリカとでは根本的に違うわけですが、そのこと自体が、理解されていないのではないかと感じます。

今まで行われてきている裁判員裁判では、基本的に罪状認否において被告は罪状を認めているものばかりですから、量刑判断だけが争点です。このような訴訟の場合は、陪審制度の下では、陪審裁判の対象にはなりえません。量刑を決める裁判官による裁判が行われるだけです。逆に、ゆえに司法取引も可能だということでもありますが。

例えば、家族内で暴力を振るう人物がいて、自分を含めた他の家族の命を奪われる危険を感じた、家族の一人が、暴力を振るうその家族を結果的に殺害したとします。
このとき殺害した人物(被告)が他の家族を守るために殺したと認めた上での裁判ということになれば、情状等酌量した量刑判断の裁判になります。
しかし、被告が、正当防衛で無罪を主張した場合は、陪審制度においては、正当防衛であったかどうかという事実認定が行われるわけです。私は、伝統的な日本の法律論における、要件事実論と法解釈論の区別に基本的に疑問を持っている人間なので、この問題は事実認定論なのだと理解します。

日本では、この正当防衛かどうかという問題について、実際にあった事実がどうなのかということの前に、正当防衛とは何をもってそういうのかという法解釈論が登場するのですね。その上で、その解釈論に基づいて事実認定に移る。解釈論で定義された正当防衛という概念が、要件事実論により認定された事実において合致するのかどうかという判断をする。

アメリカ流であっても日本流であっても結局同じことをすることになるわけです。ただ、形式が、裁判員と陪審員と異なるだけです。事実認定をするだけで、つまり、やったかやらなかったか、この場合でいえば、正当防衛かどうかという事に関して法解釈を抜きにして事実認定だけをするという意味では、同じです。しかし、どこか、決定的に違うような気がするのですね。裁判員制度の場合は、審理に裁判官が参加するということの意味は、結局、どう位置づけられるのでしょう。

正当防衛という概念に関する法解釈は法律専門家である、検察と弁護側の双方がそれぞれの論理を展開しその上で同じく法律専門家の裁判官が判断する。正当防衛とは何かということをです。その上で、問題の殺害が、正当防衛に該当するかどうかは裁判員と裁判官が合議の上、多数決で決する。

正当防衛概念の立証については、検察、弁護双方が行いそれを当然、裁判員も聞くことになるわけでしょうが、概念の範囲を決定するのは裁判官ということになるわけです。

グダグダ、回りくどくわかりにくい文章で堂々巡りのことを書いているように見えると思います。私の理解不足、説明力不足があるので仕方がありません。しかし、いいたいのは、法解釈を事実認定と切り離すということができるのか、という素朴な疑問なのですね。

アメリカの連邦租税裁判所で、租税裁判所長官に、租税訴訟において争点となるのは、事実認定なのか法解釈なのか、どちらが多いのだと質問したことがあります。
ちょっと間をおいて出てきた答えは、「いい質問だ。(さらに一呼吸)基本的には、事実認定の問題がほとんどだと考える。言葉を変えると、法に従って事実を見るということだ。」という返答が帰ってきて、私は、個人的には非常に納得したのです。
ただ、この話は、日本へ帰ってえらい税法学の先生に話しても、アメリカは法学体系論の無い国であって・・・と否定されました。

上記の事例においては、裁判官が正当防衛概念を最終的に判断するとしてもそれは、検察、弁護双方の主張を聞いたうえ、先例を踏まえて判断するのでしょう。しかし、正当防衛とは何かということ自体が事例においてはすべてだと思うのです。ただ、一般的な正当防衛概念というものを作り上げることができるということと、個別の事件が正当防衛に該当するかどうかは、その事件における事実認定の問題が関係するはずなので、要件A,B,C等をクリアしているかどうかというような判断で決められないのだと考えます。

例えば、正当防衛かどうかという事実認定において大事な基準としては、殺意の有無というのがあるのではないかと考えます。殺意を持ちあらかじめ周到に準備した正当防衛というのはありえません。その場の状況においてとっさに自己ないし他の人を守るために行った行動の結果、人が死んだということですね。そのとっさの行動において殺意があったかどうか。
咄嗟の行動であるかどうかという認定、咄嗟の行動であるという認定をした上で、かつ、殺意があったかどうかをどう認定するか。検察とすれば殺意をどう立証するか、弁護する側としては、殺意が無く自己防衛行動であったことをどう立証するか。

しかし、殺意の立証といいますが、内心をどう立証するかというのは難しいですね。殺意が会った、あるいは、無かった、いずれの立場に立つにせよ。状況から立証するしかないのでしょう。
普段から「あんなやつ死ねばいいのだ」と言っていたとしても、それは、そのとき殺意をもって行動を行ったことの証拠にはならないでしょう。

この内心をどう認定するかということが争点だと思われる税務訴訟があります。地裁で納税者が勝ち、控訴審では、課税庁が勝ちました。この控訴審判決はひどいもので、租税回避の意図があったという前提に立ち、納税者の行った行為は脱税に当たるとしたわけです。
客観的な事実認定からすれば、明文上の規定でそのような納税者の行為を否認する規定が存在しないにもかかわらず、租税回避の意図があったから納税者の取った行動は脱税だと決め付けたのですね。もちろん、先に結論ありきの判決なのですが、それにしても、客観的な状況を見る限り税法上分の明文の規定では、課税できないのです。

内心における租税回避の意思を認定し、その結果、納付税額が少なくなった場合は、明文上の否認規定が無くても、脱税だと認定する等という判決が確定してしまうことは、租税法律主義の形骸化そのものです。
この訴訟事案は、一般に武富士事件として新聞等を賑わしました。最高裁に上告されています。
武富士事件の概要等については、別の機会ですね。

夕べは、カントリー・ガゼットを聞き始めてすぐに寝たようです。
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by nk24mdwst | 2009-10-14 11:07 | 租税訴訟

eddie, are you kidding?

ショッピング・センターは、スリル満点です。この春から定年になったと思しき男性群が、大挙して奥様方について来られております。
先月あたりとの違いは、奥様方の手を離れて、あるいは、離されて、モール内をうろつく姿が目立つことですね。
陳列商品ばかりを一心に見つめ、周囲の買い物客の存在を忘れていらっしゃる。

世の中には、こんなに沢山の食料品が売られていたのだと感心しているのでしょうか?!個人的には、食料品その他の消費財は明らかに値上がりしていて、品揃え自体は薄くなっていると最近感じます。

アメリカの法廷ミステリーものは、掃いて捨てるほどありますが、トゥロー位しかまともに読んでいないので語る資格はありません。ただ、法律書ではわからない雰囲気を知りたいなとおもうわけですね。

グリシャムは、好きではありませんが、「法律事務所」という映画化もされた最初のヒット作の舞台となっている法律事務所は、南部の田舎にある法律事務所ですが、主な仕事は表向きは税務サービス、正体はマネーロンダリングでしたね。

アメリカの法律事務所でもっとも大きな収入源の一つは税務サービスでしょう。といっても、課税処分があってから押っ取り刀で駆けつけ、悪玉IRSを法廷でやっつけるなんて面倒なことをしていては、金儲けはできません。

広義の租税回避ないし節税商品(スキーム)を顧客に提供するというのがメインであるわけです。訴訟リスクを避けるため、事前協議も当然行う、IRSの方も、事前に相談を受けた方が楽なので、インセンティヴを設けてそれを奨励しているのも事実です。

限られた資源を効率的に集中して使う必要性をIRSも充分認識しているのです。

アメリカにおいては、租税関連法案も当然、議員立法だと以前に書きました。それに対して当然ロビーイングが行われるわけですが、その主体となるのはワシントンD.C. にある巨大会計事務所ないし大法律事務所です。

アメリカの有名大学ロー・スクールやワシントンD.C.の大法律事務所の租税法関連教授や租税法を専門とする弁護士等の経歴は、HPで知ることができます。

優秀な人材は、ロー・スクールを出たあと、司法、立法、行政、民間の関連する分野を螺旋階段のように上っていくのだということが良くわかります。

司法という意味では、連邦最高裁の調査官になることあるいは、司法省で連邦検事補を務めることですね。立法という点においては、上下両院の歳入委員会等のスタッフないし個々の議員のスタッフを務めることです。IRSにおいて企画立案ないし調査、訴訟に携わるというのもあります。
*IRSの弁護士が訴訟に携わるのは連邦租税裁判所における租税訴訟だけです。他の連邦裁判所における租税訴訟に関しては司法省の弁護士(検事補)がそれぞれのレベルで対応することになりますが、IRSの弁護士が助言を行うことになります。

いずれにしろ、これらの経歴を有する人たちが民間企業、会計事務所、法律事務所、あるいはロー・スクールの教授となるわけです。

民間から行政府や立法府の仕事に代わるというのもごく普通に見られます。

日本のキャリア・システムと根本的に異なるシステムなので、どちらが優れているかどうかという問題ではなく、違うシステムだということを認識することが重要だと思います。

何回かアメリカへ行って感じたことですが、明らかに二種類の人たちがいます。肌の色とか宗教という問題ではありません。
横幅が広くてジャンク・フードをパクついている人たちと、すらりとした長身痩躯、柳とした身なりで、理路整然と穏やかな口ぶりで話す人たちの二種類です。

そろそろ税金の還付小切手が納税者の手元に届く時節となったようですね、かの国も。

日本の憲法が、国民は納税の義務を有すと規定するのに対し、合衆国憲法は、合衆国は税を課すことができるという書き方で連邦の課税権を制限するスタイルです。
そして、租税法規は、合衆国議会においてのみ立法化されるわけです。

しかし、租税法というのは極めて専門的かつ技術的色彩が濃い側面があり、絶えず流動する経済情勢に対応するために細かな規定がないと意味がありません。
この実務的に必要な細かな点に関し、日本においては、政令、省令、告示といった法律だけでは足りず、各種基本通達や個別通達が出されています。
最近は、国税庁HPのQ&Aなどというものも幅を利かせ始め、租税Q&A主義に堕してきているように思えます。

アメリカにおいては、議員立法が行われるわけですが、現実には、課税庁であるIRSに対し権限委譲により様々なRegulation 等を出すことが認められているわけです。

この点に関しても、根幹となる法体系、行政組織、社会経済システムが大きく異なるので、どちらが優れているというような評価をすることは軽々には行えません。

ただ、昨年、日本では新たにアメリカの会社法の精神を盛込んだとされる形で、従来、商法(有限会社法)に定められていたいわゆる会社に関する法規を会社法として新たに制定しました。

知っている人は知っているわけですが、アメリカ合衆国の会社法というものは存在せず、個々の州レベルで会社法が存在するわけです。
具体的には、ある州では会社、法人として認められるものが他の州では認められないということがあるのです。逆に、ある州では個人事業とされる形態が他の州では法人税を有する場合もあるわけです。

アメリカはアメリカの流儀ですからいいとして、従来、ドイツ大陸法的な会社概念に基づいていた日本の商法等における会社概念を180度転換してアメリカ・スタイルにしたとき、大きな軋轢が生まれる法領域が存在します。

すなわち、日本における法人税法、所得税法等の租税法領域における会社概念との整合性の問題です。
この問題に関し、本来は、確定決算主義、公正処理基準の問題として正面から取り組まれるべきであったはずなのですが、平成18年改正における法人税法34条、35条の改正という非常にゆがんだ形で行われる結果となったのは、非常に残念なことです。

もう一つ大きな問題が信託法の改正をめぐる問題なのですが。
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by nk24mdwst | 2008-05-11 16:02 | 租税訴訟

0&A

憲法記念日なので The Contitution of th U. S. の前文とその第1条を採り上げてみました。

The Constitution of the United States of America

[Preamble]
We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquillity, provide for the common defense, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.

前文は合衆国の精神ですね。

Article. I.
Section 1.
All legislative Powers herein granted shall be vested in a Congress of the United States, which shall consist of a Senate and House of Representatives.
合衆国憲法第1条は、議会制民主主義の原則を謳っています。

さて、Bill of Right の一つとされるAmendment の1と2です。

Amendment I
Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the Government for a redress of grievances.

Amendment II
A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.

Amendment Ⅰは、宗教からの独立、思想信条の自由、表現の自由を妨げる立法を禁ずることにより合衆国憲法の神聖性を担保しているというべきでしょうか。

AmendmentⅡは、武器保有の自由の保障 です。
この条項を立法した人たち念頭には、ストリート・ギャングが街角で銃器による抗争を行うことなど全くなかったに違いありません。

キーワードとしては、militiaとは何か、また、militia は、well regulated されているわけで、指導者は誰かということが一つ。
もう一つは、the security of a free State のために必要な場合とはどのような場合か、言い換えると安全を脅かすのは誰かということが問題ですね。

ストリート・ギャング抗争や大学のキャンパス内での無差別発砲者を連邦憲法は、当然のことですが、端から想定なんかしていないわけです。

これらの合衆国憲法の冒頭部分は、日本国憲法とは全く違います。成立過程も含めて勉強しなければいけないと考えていますが。

*6月28日記す。
上記の銃器の携行に関する連邦最高裁の判決が出たので。
 SUPREME COURT OF THE UNITED STATES
      Syllabus
      DISTRICT OF COLUMBIA ET AL. v. HELLER
CERTIORARI TO THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR
THE DISTRICT OF COLUMBIA CIRCUIT
No. 07–290. Argued March 18, 2008—Decided June 26, 2008
District of Columbia law bans handgun possession by making it a crime to carry an unregistered firearm and prohibiting the registration of handguns; provides separately that no person may carry an unlicensed handgun, but authorizes the police chief to issue 1-year licenses; and requires residents to keep lawfully owned firearms unloaded and disassembled or bound by a trigger lock or similar device.
Held:
1. The Second Amendment protects an individual right to possess a firearm unconnected with service in a militia, and to use that arm for traditionally lawful purposes, such as self-defense within the home.
Pp. 2–53.
(a) The Amendment’s prefatory clause announces a purpose, but
does not limit or expand the scope of the second part, the operative clause. The operative clause’s text and history demonstrate that it connotes an individual right to keep and bear arms. Pp. 2–22.
(b) The prefatory clause comports with the Court’s interpretation
of the operative clause. The “militia” comprised all males physically capable of acting in concert for the common defense. The Antifederalists feared that the Federal Government would disarm the people in order to disable this citizens’ militia, enabling a politicized standing army or a select militia to rule. The response was to deny Congress power to abridge the ancient right of individuals to keep and bear arms, so that the ideal of a citizens’ militia would be preserved. Pp. 22–28.
(c) The Court’s interpretation is confirmed by analogous armsbearing rights in state constitutions that preceded and immediately followed the Second Amendment. Pp. 28–30.
(d) The Second Amendment’s drafting history, while of dubious
interpretive worth, reveals three state Second Amendment proposals that unequivocally referred to an individual right to bear arms. Pp. 30–32.
(e) Interpretation of the Second Amendment by scholars, courts
and legislators, from immediately after its ratification through the
late 19th century also supports the Court’s conclusion. Pp. 32–47.
(f) None of the Court’s precedents forecloses the Court’s interpretation. Neither United States v. Cruikshank, 92 U. S. 542, 553, nor Presser v. Illinois, 116 U. S. 252, 264–265, refutes the individualrights interpretation. United States v. Miller, 307 U. S. 174, does not limit the right to keep and bear arms to militia purposes, but rather limits the type of weapon to which the right applies to those used by the militia, i.e., those in common use for lawful purposes. Pp. 47–54.
2. Like most rights, the Second Amendment right is not unlimited.
It is not a right to keep and carry any weapon whatsoever in any
manner whatsoever and for whatever purpose: For example, concealed weapons prohibitions have been upheld under the Amendment or state analogues. The Court’s opinion should not be taken to cast doubt on longstanding prohibitions on the possession of firearms by felons and the mentally ill, or laws forbidding the carrying of firearms in sensitive places such as schools and government buildings, or laws imposing conditions and qualifications on the commercial sale of arms. Miller’s holding that the sorts of weapons protected are those “in common use at the time” finds support in the historical tradition of prohibiting the carrying of dangerous and unusual weapons. Pp. 54–56.
3. The handgun ban and the trigger-lock requirement (as applied to self-defense) violate the Second Amendment. The District’s total ban on handgun possession in the home amounts to a prohibition on an entire class of “arms” that Americans overwhelmingly choose for the lawful purpose of self-defense. Under any of the standards of scrutiny the Court has applied to enumerated constitutional rights, this Cite as: 554 U. S. ____ (2008) prohibition—in the place where the importance of the lawful defense of self, family, and property is most acute—would fail constitutional muster. Similarly, the requirement that any lawful firearm in the home be disassembled or bound by a trigger lock makes it impossible for citizens to use arms for the core lawful purpose of self-defense and is hence unconstitutional. Because Heller conceded at oral argument that the D. C. licensing law is permissible if it is not enforced arbitrarily and capriciously, the Court assumes that a license will satisfy his prayer for relief and does not address the licensing requirement.
Assuming he is not disqualified from exercising Second Amendment rights, the District must permit Heller to register his handgun and must issue him a license to carry it in the home. Pp. 56–64. 478 F. 3d 370, affirmed.
http://www.supremecourtus.gov/opinions/07pdf/07-290.pdf

この裁判の内容の検討はいずれ、できたらと。

ここで、話は三転、裁判員制度の話をします。

● 陪審制や参審制とは違うのですか。

諸外国においても,国民が刑事裁判に参加する制度を導入している国は多数あります。国民が裁判に関与する形態等はそれぞれの国によって様々ですが,おおむね陪審制と参審制に分けることができます(詳しくは,裁判員制度ナビゲーションの資料編(データ集)(409KB) を参照してください。)。 陪審制とは,基本的に,犯罪事実の認定(有罪かどうか)は陪審員のみが行い,裁判官は法律問題(法解釈)と量刑を行う制度です。陪審員は,事件ごとに選任される点に特色があります。陪審制は,アメリカやイギリスなどで採用されています。 参審制とは,基本的に,裁判官と参審員が一つの合議体を形成して,犯罪事実の認定や量刑のほか法律問題についても判断を行う制度です。参審員は,任期制で選ばれる点に特色があります。参審制は,ドイツ,フランス,イタリアなどで採用されています。 裁判員制度は,裁判員と裁判官が合議体を形成するという点では参審制と同様です。ただし,裁判員は事実認定と量刑を行い,法律問題は裁判官のみで行う点で参審制とは異なります。他方,裁判員が事件ごとに選任される点では陪審制と同じです。 このように,裁判員制度は,参審制・陪審制のいずれとも異なる日本独自の制度だと言うことができます。

http://www.saibanin.courts.go.jp/qa/c8_2.html

最高裁のHPの中にある裁判員制度のQ&Aからです。

陪審制度においては、陪審員は犯罪事実の認定だけをする、つまり、有罪か無罪かノ判定だけの判断をする。法律判断、つまり、どのような刑罰(量刑を含む)が相当かどうかの判断は、法律専門家である裁判官が行います。
法律判断においては、当然、同様の事件における判例等の知識も必要ですから専門家に委ねるのは当然です。

大陸諸国で行われている参審制度は、陪審や裁判員とは異なるところがかなりあります。個々の事案において召集されるのではなく、一定の任期を持つことがことなります。
裁判官と一緒に合議体を形成するという点においては裁判員と同じです。ただし、事実認定だけではなく量刑の決定も行う点が陪審制と異なります。
一定の任期を与えられ、その間の地位も保証され、裁判官と一緒になって法律判断をも行うわけです。

裁判員は、事実認定と量刑の決定を行う点において、さらに裁判官と合議制であるという点において参審制と似ていますが、個々の事案限りであるという点が違います。短期間の拘束だから市民の負担が軽いというようなことは問題ではありません。
裁判員は事実認定、つまり有罪か無罪かの判断をするところはともかく、法律判断に関しては、裁判官が行うわけです。そして、量刑を決定するというシステムです。

市民の裁判への参加の是非以前に、法的判断を抜きにどうやって法的経験も知識もない裁判員に量刑の判断ができるのでしょうか。裁判官がガイド・ラインを示すのでしょうか。
制度として大きな矛盾を抱えたものであると考えます。

この点に関しては、法曹関係者はみなわかっているはずなのですが。

それから、最高裁の解説では市民の裁判参加に関し、海外においては刑事事件だけに限られているように述べていますが、これは事実と異なります。

アメリカの税務訴訟のところで説明したかもしれませんが、アメリカでは連邦地裁に租税訴訟のような行政訴訟を持ち込んだ場合は陪審制度を利用することができます。
同様に、ドイツ等の大陸諸国においても、租税訴訟を含む一定の行政訴訟に関し、参審制という形で市民の参加を認めています。

租税訴訟のような専門性、技術性の高い問題を普通の市民の合議体である陪審員の判断に任せるのは、かなり、勇気の要ることであるように思われます。その意味で、合衆国租税裁判所のような租税専門裁判所の存在意義は非常に大きいように思われます。

逆に、ドイツにおいて租税訴訟を取扱うのは財政裁判所ですが、こちらの方は、専門性の高い租税訴訟において、パン屋の主人でも納得できる判断を行おうという姿勢であると聞いたことがあります。

ここで考えねばならないのは、行政訴訟手続は、民事訴訟手続に順ずるべきか刑事訴訟手続に順ずるべきかという問題です。海外の例、日本における学説等を検討する必要があります。

一般に日本では、行政訴訟は民事訴訟の一つとして位置づけられているようですが、ドイツやアメリカでは逆に刑事訴訟同様の手続的厳密性を要求しているように思われます。
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by nk24mdwst | 2008-05-03 13:47 | 租税訴訟

What did I do on Dec. 24?

12月は、毎日、書いていたのに、24日は休んだ理由を忘れないように。

クリスマス・イヴにもかかわらず、朝一で東京へ行き、午後の研究会までの時間を羽田のレストランで飯を食いながら原稿書きをして過ごす。厳密にいうと他人の原稿に手を入れていたわけで。

しかし、同じときに同じところにいても、人それぞれ見方、感じ方が違うということを再認識。専門知識、予備知識があるなしという問題もありますが、感性の違いはやはりある。生半可な知識が無い方が、直感的に真実を見つけることにつながることもあるかなと。

午後は、研究会、その後、忘年会、二次会でホテルに帰ったら日付が変わっていました。

研究会で面白かったのは、財政学の先生の放った一言、「今年の税調答申は悪文だ。」というものです。税調答申内容の是非、賛否は、個人の価値観、立場で異なるので触れないことにしますが、悪文なのは間違いないです。

なぜ、悪文か。要するに日本語の体をなしていない、意味不明であるということですね。意図してか否かは別にして、公式文書が意味不明、理解不能というのが日本の現状ですか。

与太話でしか応じられない私は、「そもそも日本語の力自体が落ちたのではないか。NHKのニュースもひどい言葉づかいをしている。大体、群馬県と茨城県を地図で間違えるほどだし」と。

アメリカでは、ロー・スクールでリーガル・ライティングを教えているので、法律家の文書は、読みやすいと感じます、日本の裁判官のそれに比べて。

別にアメリカの司法システムが日本のシステムより勝れているなぞと大それたことは言うつもりはありません。アメリカにおいて法律家は、弁護士、検察官、判事、あるいは、行政府ないし議員、議会における立法助言者としての役割を果たしているわけです。

日本の法律家とアメリカの法律家の違いは、思考過程が全く違うということです。かの国においては、法律家は、それぞれそのときの立場において、自分が代理人を勤める依頼者にとって最もよい結果=それが自分の報酬、キャリア・アップにつながる=になるよう、先行判例、証拠等を積重ねて結論を導き出そうとするように訓練されています。

社会は、こうあるべき、真実はこうあるべきなどということは、それが例えば訴訟等で有益だと判断すれば言うでしょうが、「べき」論では議論しないのですね。結論へ直線的に最短でいける論理を探す。お互いにその論理を振りかざしけんかをするのですね。

日本の裁判官の判決文によくあるのですが、結論は決まってしまっているわけです。それが事実か、あるいは、裁判官の良心そのものであるかどうかとは別に、です。日本の場合は、アメリカのように終身身分保障された判事はいないわけですから。ただ、良心の呵責というといいすぎかもしれませんが、前段、前振り、その他でもってさも善人、物分りのよさそうな振りをして延々長講釈した後、論理が急展開して、判決に行ってしまうのですね。

租税訴訟がそうですが、行政訴訟においては、特にその傾向が強いと感じます。それから、日本における刑事訴訟の本質は、究極の行政訴訟ではないかと勝手に考えていますが。
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by nk24mdwst | 2007-12-28 17:29 | 租税訴訟

Me and Dr. Kitano

北野弘久先生の『税法学原論(第6版)』(青林書院)刊行の広告が今朝の日経の一面に出ていました。青林書院のHPの広告からすると20ページ余り加筆訂正が行われたようです。

第5版を出されたときには、遺書のつもりでとおっしゃっていたのですが、第6版と新たに改訂されたわけです。昭和一桁生まれの方々のパワーにはやっぱりかないません。

期間税、随時税と訴求立法の有効性について加筆されたと聞いておりますが。

以下、1月15日記す。

税法学原論(第6版)がアマゾンから来ました。不動産譲渡損に係る損益通算の廃止に関しての課税年度途中における法改正は、所得税が期間税であるという観点からすれば問題ないとしても、不動産譲渡という行為が通常の人にとっては、毎年あるわけではないので、期間税として遡及立法(納税者に不利益な)が認められるものではないと加筆をされておられました。

Me & Mr. John McNalty というのもいつか書こうと思ってます。

以下、2月1日記す。

税法の遡及適用は違憲、福岡地裁が住宅売却損の控除認める

 改正租税特別措置法が施行前にさかのぼって適用されたため、マンション譲渡で発生した損失を他の所得から控除することを福岡税務署が認めない処分をしたのは違憲として、福岡市の女性が国を相手取り、処分取り消しを求めた訴訟の判決が29日、福岡地裁であった。

 岸和田羊一裁判長は「租税法規不遡及(そきゅう)の原則に違反し、違憲無効。控除を認めるべき」などとして処分を取り消した。

 改正法では、個人の土地、建物などの譲渡に伴う損失を他の所得から控除するのを認めないことにする一方、譲渡や買い替えに伴う借入金がある場合は控除を認める特例が盛り込まれた。2004年4月に施行され、適用はさかのぼって同年1月からとされた。

 判決によると、女性は1997年、同市中央区のマンションを約4800万円で購入し、04年3月に2600万円で売却。同月、同区内に別のマンションを購入した。女性は05年3月、約2000万円の損失を他の所得から控除し、約170万円の還付を求めたところ、法改正を知らされた。女性は直後、同税務署に04年分所得税の更正請求をしたが売却、買い替えに伴う借入金がなかったため、特例措置の対象とならなかった。

 女性は同税務署長に異議申し立てをし、国税不服審判所長にも審査請求をしたが、いずれも棄却。06年提訴した。弁護士を付けず、「国民の財産権を侵害する遡及適用は許されない」と主張。国側は「節税のために土地の安売りを招く恐れがある」などと訴えていた。

 岸和田裁判長は「法改正要旨が報道されたのは遡及適用のわずか2週間前。国民に周知されていたといえない」などと指摘。その上で、「控除を認めないことで不利益を被る国民の経済的損失は多額に上る場合も少なくなく、改正法の遡及適用が国民に経済生活の法的安定性を害しないとはいえない」と判断した。

 油布寛・福岡国税局国税広報広聴室長は「控訴するかは判決内容を詳細に検討して決めたい」と話した。

 改正法の遡及適用を巡っては、日本弁護士連合会が「憲法に違反するもので、再度法改正を行って救済措置をとるべき」とする意見書を発表している。日弁連税制委員会の水野武夫委員長は「租税法規の遡及適用を違憲と認めた判決はおそらく初めて。慎重な立法を促すという点でも画期的だ」と話した。

(2008年1月30日03時05分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080129-OYT1T00842.htm

常識的な非常に優れた判断を裁判所は下したと思います。
この法律改正について国会で答弁にたった当時の財務省担当者は、金子租税法を振りかざして合法性を強調したのを思い出しました。

岸和田裁判長の違憲判断にまで踏み込んだ判決は、大したものだと思いますが、逆に、これが本人訴訟だというところに日本の司法の租税訴訟に対する消極を見てしまいます。
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by nk24mdwst | 2007-12-13 12:53 | 租税訴訟